適切に乞うこと

全然書いてなかった。

先週末はフェスティバルと同時開催していたグループ展に参加した。学外の展示に参加するのは初めて。ちなみに今年で3回目の展示。4月で3回目なのはなかなか良いペースだと思った。もちろん数が多ければ多いほど良いってものでもないけど、経験があんまり無い自分にとっては絶対良いはず。

展示に参加した人たちはほとんど作品の種類が違っていて、わざわざ被らないようにしたのかと思うくらいだった。水彩、ペン画、版画、銅像、彫刻、服、インスタレーション、ビデオ、グラフィック、アニメーション(自分)。これくらいかな?参加者は10人くらい居た。

設営から展示、搬出までスムーズにことが運んだ。自分が助けられる側になることが多くその度ありがたかった。

 

昔から自分は人が時間を割いて助けてくれることに罪悪感があり、それはずっと変わらない。先生とかそういう助ける立場にある人に対してはあまり思わなくなったけど、人の時間を自分に使わせるのが申し訳ないという気持ちになる。(だから何かへ人を誘うことに抵抗があるんだと思う。その人が好きそうな情報があればそれを伝えたりは普通にする。)

いつも何か手伝って欲しい時に声をかけるのを躊躇ってしまい結局間に合うか間に合わないかの辺りでいっぱいいっぱいになり泣きそうになりながら手伝ってほしいと訴えるみたいになってしまう。その方がかなり迷惑だなと思う。

そして手が空いてる時は罪滅ぼしのように誰かの手伝いをしようととりあえず声をかけてみるけど特に無かったりして(ただそこら辺を彷徨い邪魔になるか隅でおとなしくじっとし空中を見つめるかの二択…)。

それを何度も繰り返してようやく気づいたのは、みんな必要な時に手伝って欲しいとちゃんと言ってること。そして周りは当たり前に手伝う。見た目で大変そうな時声かけてくれる人もたまにいるけど、その前に本人が手伝って欲しいという意思を示している印象。もしかしたら世間一般的には当たり前なことかもしれないけどようやくそれが分かって衝撃だった。

そして誰かに手伝ってほしい時お願いできないのは、逆を言えば察してもらうことを待ってるのかもしれないと今これを書きながら気付いて怖くなった。今まで"誰かやその場の雰囲気を察する"という文化が苦手だったにもかかわらず、自分はまさにそれを自分以外の人に望んでいたのかもしれないなと思ったから。でもこれに今気付けて良かったとも思う。何年も後に気付いていたら(もしくは一生気付かなかったら)苦労するだろうな。もちろん気付いただけでは変わらないのでこれから困った時は迅速に誰かへ助けを求めたい。